第11代会長 市川保さんのインタビュー

(有)市川商店 市川保


市川保(いちかわ・たもつ)
市川商店
愛知県宝飯郡御津町(現在は豊川市)出身、旭町駅前繊維問屋街から卸商団地設立を機に現在地へ移転、盛業中。22歳で家業の市川商店に戻り、26才の時に浜松経済クラブ(〜40才)、27・8位から昭友会(〜45才)、30才位から西部青年中央会に所属。その他繊維業界の団体にも参加。


Q1:青年中央会会員として活動されていた中で、一番印象に残っているエピソードは?

 当時は青中も40人くらいは在籍していた。元々は卸商団地昭友会からの出向で、私が参加するまでは昭友会会長が出席していたが、一年任期ごとにメンバーが変るので継続的な活動がしづらいという配慮から、私のときから山本さんと2名で参加するようになった。出向2年の任期ののちも、個人会員として活動を継続した。
 西村さんが会長の時、「音まつり」を催した。某楽器メーカーさんへ寄付を仰いだところ100万円くらいいただけた。好景気だったことも手伝ったにせよ、一介の個人が同じことを企画してもたぶん通らない話だが、「中央会」の活動として訪問すると、それなりに話も聞いてくれる。そういう部分が一番印象に残っている。
 そのときは、太鼓の演奏団体も呼んだ。青中メンバーに二俣十八日会や材友会の衆がいたこともあって、もくもくまつりと同時開催でやった。


Q2:会社や事業主としての活動と、青年中央会会員としての活動を両立していく上で、当時気を付けていた事は?

 やはり時間配分。経済クラブ、昭友会、青中に加えて繊維業界の団体もあったから、ピーク時は月に15回くらい会合があったように記憶している。

Q3:青年中央会の活動を通じて得たことで、現在まで役立っている事は?

 様々な経験。個人では出来ないイベントの立上げとか、前述した協賛とか。自分が考えていることが実現できる。
 青中で副会長を拝命してからは県の中央会へも出席してそこで中部・清水・東部のメンバーとの交流が出来て楽しかった。OB会は現在も継続している。
 「役立った」というのとは違うかもしれないが、敦賀へ視察へ行ったことがあった。今は休止中の高速増殖炉「もんじゅ」の視察が出来た。20年間で6千億円の研究開発費がかかっているとか聞いた。そこで発電した電力を関西電力へ売るということだったがいくら回収できたかは知らない(笑)。その後まもなくあの事故が起きた。貴重といえば貴重な経験だ。
 自衛隊の東富士演習場を視察したこともあった。自衛隊の支援団体である防衛協会から青年中央会へ会員募集があって、個人で加入した。AWACSを近くで見ることも出来た。こういう貴重な経験も青年中央会がきっかけになっている。


Q4:座右の銘や貴方を変えた一言など、人生に影響を与えた言葉があれば、お教えください。

 「座右の銘」という形ではないが、何とかなると思って何とかしていると何とかなるもんだ。諦めないことだ。
青中や他の会での講演会だって、全てがすぐに役立つというものではない。やはり数多く聴いていく中で、100回に1回くらいはホントに役に立つものも出てくる。


Q5:最後に、今の青年中央会会員達に伝えたい事がございましたら、お教えください。

 どんな会でも最初から楽しくはない。考えてみれば、ぜんぜん知らない人達の間に「出向」で一人で行ってポツンと座っていたって誰だって面白いはずは無い。1年2年は辛抱が必要。継続する内に何かが見つかるから。
インタビューの感想
インタビューをして実際感じたことは、熱いお方というのをまず感じました。西部青年中央会に限らず、そこで自社に関するヒントやプラスにしようとする当時の気迫が伺えました。
それと同時に、自社1社だけでは出来ない事などを、このような会を通じ実現できることの良さを感じました。
Q4での「青中や他の会での講演会だって、全てがすぐに役立つというものではない。やはり数多く聴いていく中で、100回に1回くらいはホントに役に立つものも出てくる。」
との言葉に感銘を受けました。
これからもっと、仕事にまたはそのような会に精進していかなくてはと感じさせていただきました。
ありがとうございました。

担当 中村善太 平松


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